特集!教育シリーズ
勉強嫌い
当時:3年生担任
国語辞典に、勉強とは「能力や知識などを得るために心をはげまして、ならったり学問をしたりすること」とありました。

それを俗人は勉強という机について、書物やノートと共にしていることを言っているようです。

先日ラジオを聴いていると山本丈晴氏が「学生の頃、勉強は不得意であった。」と言っておられました。
それを聴いて今のお母さん方が、懇談会等で発言される内容を総合してみると、やはり「読み書きそろばん」が、勉強という概念であると強く感じました。

一方、子ども達は教室で「明日は、何時間ね。」「宿題はあるんね。」としつこく聞いてくる。それを聞くと学校でも家庭でも、同じことを毎日毎日子ども達に押し付けているのではないかとふと思います。

机についてやるのが本当の勉強でしょうか。子ども達は本来生きるための努力を、日々積み重ねているのです。それがたとえ机についていなくても、机について考えを巡らす以上に、普段の生活の中で考えを巡らしているのです。

同型同種の人間を作ろうと腐心している中では、本来持ち合わせているすばらしい能力はひきだせないように思います。

教室で家庭でぎゅうぎゅうと、知識の押し付けをしているようでは、子ども達は防衛本能それを拒否してくるでしょう。子ども達は、しめられたら解放してほしいのです。これでもか、これでもかと押し付けるから、子ども達は勉強が嫌いになるのです。

子どもは、友だちと遊んだりけんかをしたりするなかで、人との接し方を、自然のうちに、学ぶものです。それが近頃では、家庭に帰ると一人で、テレビやファミコン相手に時間を費やしていることがいかに多いことか。一人で生活することが不可能な今日、いかに仲間と楽しく有意義に過ごすかで、人生観も大きく左右されると思います。

死す直前に我が人生の充実度の最終判断がなされるとすれば、それまでをいかに生きるかを学ばなければならないはずと思います。

子ども達の中に、本当に勉強嫌いはないのです。
勉強嫌いは、勉強という定義の理解の仕方によって、大人が勝手に子ども達に押し付けた烙印ではないでしょうか。
我々大人が今一度子どもを見詰め直し、親の一方的な願望のみで子どもを強制せず、能力の引き出しに目を向けてやらねば、こどもは自ら切り開く人生を構築できないと思います。優能な人間が育つのは、けじめのある生活の中からではないでしょうか