CHOURS ”かべ”創立百周年記念誌
昭和49年発行 
可部小の本 歴史を振り返る

生きて百周年を迎える 卒業生代表 木谷賢一

春夏秋冬、それぞれの思い出を重ねてここに八十有余年の歳月を、どうやら生き延びてまいりました。

うけたまわれば今秋、私の母校である可部小学校が開校満百周年を迎えるそうですが、過ぎ去ってみれば、
小学校時代もつい先年のような気がします。私が卒業したのはちょうど開校三十年目の明治三十七年で、
小学校教育制度もようやく軌道に乗った時代であったようです。

当時たしか「成美舎」といって生徒数八十人(女十九人)教員数八人(女教員一人)という、現在の幼稚園
程度の規模ぐらいだったと記憶しております。生徒の服装もカスリの着物にわらじばきというお粗末な姿で、
現状と比較するとまるで月とスッポンの違いがありました。

 しかし、師弟間の礼儀作法だけは事のほか厳格で、登校中は勿論休校中といえども先生に出会った際は、
不動の姿勢で最敬礼が常識でした。近年の生徒間では「センヤン、センヤン」という言葉もしばしば耳にしま
すが、これが当時でしたら今どきの生徒諸君には信じられないかもわかりませんが、青竹を頂いた上に退校
処分という厳罰ものだったのです。実は私も退校処分寸前のいたずらをしたおぼえがあります。

当校初の運動会際十人余りで竹垣を壊した罰として当時の高羽幸槌校長から全員が青竹の洗礼を受け、
特にガキ大将だった私めは、人一倍いただきコブだらけの頭を恥ずかしくて両親に内緒にしていた想い出が
いまだ胸に焼き付いてはなれません。とにかく当時の教師は仏様で校長は神様の存在でした。

 また当時は落第生が繁昌し、卒業と同時に兵隊検査を受けた者もかなりあったわけです。

このほか想い出はいろいろありますが、いずれにしても共に学んだ懐かしい友の多くはすべて高いし、生きて
百年記念を迎える幸福をひしひしと感じます。

最後になって誠に申し訳ございませんが、開校百周年を心からお祝い申し上げますと同時に諸先生方、
生徒諸君のご健勝を記念してやみません。